Kumi Umuyashiki
Purpose - 目的
更新日:2021年8月15日
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"セラピーの目的"
以下に、Alice Miller (心理学者)の "The Drama of the Gifted Child" という本からいくつか私が簡単に翻訳したものを引用します。
子どもの頃との繋がりを切ってしまうと、自由は得られない。子どもの頃に感じた圧倒されるような感情を恐れなくなった時に、私たちは"本来の自分"にアクセスすることができる。
正当な感情を感じ切っていくことで、自由を得ることができる。体に宿った感情のリリースができるからだけではなく、感情を感じることで、"現実をありのまま見る"ことができるようになるからだ(過去も現在も含めて)。 そうすることで、(自らを欺いていた)嘘や幻から、解放される。 抑圧された感情は、そう感じることが正当だったのだと理解することができるようになれば、解決していく。
患者が自分の子どもの頃のことに感情的に取り組み、そしてその結果、"自分が自分として生きている" という感覚を取り戻せた時に、セラピーの目的は達成される。
セラピーの目的が達成されると・・・
その人は "支配"や"コントロール"に気付くようになるので、相手を支配したりコントロールしたりすることをしなくなる。
誰かや何かの教えを理想化し、それにはまり込まなくなる。感銘を受ける先生や講義があったとしても、盲目に何かの教えに騙されることがない。
自分の痛みに取り組んだ人は、自分以外の人の痛みに気付くことができる。たとえ相手がそれを隠していたとしても。そして他人の感情を軽蔑しない。自分の感情も大事にしているのだから。
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私がカウンセリングやサイコセラピーのようなものを初めて受けたのは、二十歳くらいの頃でした。1997年とかそんな時代。今の年齢を考えると・・・、遠い遠い、昔の事になります・・・。
イギリス、カナダ、日本で受けた沢山のカウンセリングセッションの中で、一番強烈だったのが、二十代後半の頃にカナダで受けたセッションでした。あまりに強烈だったので、そのセラピストのところに二度と戻ることができませんでした。
そのセッションでは、「怒り」についてのセラピーが行われたのですが、カウンセラーはスーツ姿の、どちらかというと男前な、40代くらいの男性で、彼は足を組んで私の前に座っていました。
「怒り」についてのセッションだったのは、その頃の私は怒りのコントロールができなかったからです。
バンクーバーの夏は素晴らしい気候で、窓から見えていた都会と自然の融合する風景が、最高に綺麗でした。その窓際に女性のアシスタントが座っていて、私のセッションをメモに取っていました。
男前の威厳あるカウンセラーのおじさんは、二十代後半の私に、子どもの頃のことを質問していました。
親との関係について、親に殴られたことはあるかとか、怒鳴られたことはあるか、とか、そういう内容の質問を受けました。
私が覚えているその時の感覚は「恐怖」で、私の足は、ずっとずっと、がくがく震えっぱなしでした。
そこで私が取った対処法は、とにかく心を閉ざすことでした。
その時相手が「敵」にしか見えませんでした。
その時の恐怖の体験は何年も体に残りましたが、最近になって(20年経って!)、あれはもしかしたら必要な体験で、必要な反応だったのかもしれないと、思えるようになりました。
あの時、取調室的な環境が恐ろしかっただけではなくて、あのカウンセリングセッションでは、親のことを聞かれることがとにかく居心地が悪くて、私は何かを必死に守ろうとしていました。「何かを暴かれるかもしれない」ということが怖かった。
20年経って、あの時私は何を暴かれたくなかったのかと・・・、思いを巡らせてみると、色んなことが、思い浮かぶのです。
家族のことであったり、親のことであったり、もしかすると、密かに「恥じている自分」のことだったかもしれなかったり・・・。
それらを暴かれないようにするために、防護壁や兵隊みたいなキャラが私を取り囲んでいたんだけれど、足だけガクガク震えていて、その震えが語ることはきっと何よりも多かったのだろうなと思います。とにかく何かを必死で守っていたのだ。
守りをなくすということは、自分の「もろい部分」をさらけ出すということ。
守りを外してもろくなるのは勇気が要るのだけれど、もろくならないと知ることができない真実が沢山ありました。
またその真実に気がついていかない限り、同じ苦しみを繰り返してしまったり、ひいては次の世代にもそれと同様の苦しみを与えてしまうかもしれない。
胎児の頃からの記憶や感情。
胎児を含める幼い頃の潜在記憶は、ストーリー性はないけれど、感情として体が覚えていたりする。
そこから言葉が話せるようになり、しばらくするとストーリー性のある記憶も持てるようになって・・・。
そんな記憶や感情ができるきっかけとなったであろう、過去の多くの出来事たち。
またそれらの出来事や感情を経験したことによって作られてしまった思い込みや世界観・・・。
それらに基づいて無意識に培われていった自分の性格や生き方・・・。
恐怖だったあのカウンセリングの体験から20年かけて、自己防衛を外す作業は私の場合、多くの仲間にサポートされ安全だと感じられる環境にいたので可能だったのだと思います。
「信頼のおける人間関係」が構築できたセラピストとの関係性の中でのみ、自己防衛を外していけるのだろうし、そうでなければ、自己防衛は外さない方が良いのだと思う。
そして信頼できる人間関係を構築するのには、時間がかかったりもするのだ。
でももしも、守りを外して弱くあれることが大丈夫な機会や関係性を与えられたならば、私たちはもろく、弱くあることで、「そこにもともとあったパワー(力)」に、やっとアクセスすることができるのです。
弱くならないと得られない力がある。(皮肉だけど・・・)。
自分に取り組むことを25年以上行ってきたのだと思うと長い道のりだと思うけれど、それはこの先も一生続く旅なんだろうし、私にとってはそれが生きるということだ。
自分に取り組むワーク(セラピー)の目的は、「自由を得る」こと。
それは過去からのしがらみから解放される自由であり、本当の意味で、「真の自分で今を生きる」ことを可能にしてくれる自由なのだと思うのです。

【補足①】
セラピーは悪者探しをすることや、親や他の誰かを責める作業ではない。
自分が感じた感情は正当なものだったと受け止める作業であり、生理学的に今でも同じ反応が起きていることを知る作業であり、だけど今はもう必ずしも、同じように反応したり自己防衛したりする必要がないことを理解する作業。
但し、私にとっては、頭で理解することで、すぐさま生理学的な反応が変わることはなかった。生理学的な反応とは、ドキドキしたり、体が緊張していたり、呼吸が苦しかったり、場合によって停滞のように動けなくなるような反応のこと。
そういう反応は、止めようとすると更にひどくなる(What you resist persists)。
だからとりあえず、どうにかしようとすることをやめて、その感覚に「そんな自分がいるのか~」と気づくらいに留めておいた方が、ひどくならない。
ヨガは一方、神経系を整えるための助けになっていた。ヨガは体を動かさなければいけない、というものでもなく、例えばただ自分の体に触れる(例えば胸やお腹のあたりなど)ことも、ヨガだ。
「ここに触れると安心する」という場所が見つかったら、それは一つの宝となる。
「この動きをするとリラックスする」ということを体験したら、その体験も宝箱にしまっておける。
そしてそれらの宝たちを、必要な時に引っ張り出してきて使うことで、生理的な反応を思考以外のやり方で整える(Regulate)ことができて、楽になっていく。
こんな風に、頭で事情を理解して、体で生理学(神経系)を整えるということが、今の私にとっては、一番合理的で現実的なアプローチになっていて、毎日そんなことをして暮らしている。
そして、生理的反応(不安になったり、緊張したり)は、完全になくならなくても、別に良い。それらはある時期、私を助けてくれるためにそこに出現したものだとするならば、今でもたまに出現してもきても当然のことだよな~って思う。
「自分を助けるために自分を苦しめてしまった」ちょっとマヌケなスーパーヒーローみたいなもんだ。出現してきたら、「また来たね」、と挨拶をしつつ、マヌケなスーパーヒーローたちに、彼らの出番じゃないことを教えてあげたりして・・・。
ちなみにマヌケなヒーローたちは、パニックや鬱みたいな生理的反応だったり、依存症や、自傷行為であったり、病であったり、様々な形で姿を現す。だから何かに依存したり病気になったりすることだって、それらが自分を(マヌケな形で)守っていたのだから、そんな事柄たちを裁くことなく、思いやりを持っていきたい。
【補足②】
恥について。
「恥」の定義にはふたつあって、
ひとつは、「自分が行った行為に対しての恥」。これは自分の行動を改善するきっかけになる感情かもしれないので、行為に対する恥という感情には、良い役割があるという人もいます。
もうひとつは、「自分の存在自体が恥」だということ。これは怒りや悲しみよりももっと強いマイナス感情だと教えてもらったことがあります。
子どもは「生まれてきて良かった」と感じることができると、その先の一生を、世界を信頼して生きていくことができるようになります。
「生まれてすみません」って太宰治みたいだけど、自分の存在が恥である場合、自分は人の迷惑となり、存在価値はないものとなるので、その先の一生を、その感情に支配されながら生きることになる、しかも、まったくそのことに気付いていない状態で。
日本は「恥の文化」とアメリカ人の誰それが昔本に書いていたこともあるように、日本は恥を美徳としているところがあるのだが、それは自分の行為を顧みて改善するという意味合いで使われる恥の文化なのであれば、謙虚で良いものとなるのかもしれない。
でも、「あなたは恥ずかし存在だ」というメッセージと「恥の美徳」を混同していないか、(特に子育てをするときには)注意する必要があると思う。
「存在自体が恥」となった時には、生きている価値や意味が見いだせなくなってしまうのだから。