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  • 執筆者の写真Kumi Umuyashiki

運命

心理学者のカール・ユングの言葉に、こんなのがあります。


「無意識を意識化するまでは、無意識があなたの人生を方向づけし、あなたはそれを"運命"と呼ぶだろう」- C.G.ユング


“Until you make the unconscious conscious, it will direct your life and you will call it fate.”― C.G. Jung



何度も同じ課題が人生で降りかかってくる時(似たような苦悩を繰り返すなど)、「嗚呼、自分は同じパターンを繰り返しているな~」って、思うことがあるかもしれなくって、「そこから学ぶことがあるはずだ」とか考えたりして、人は人生で遭遇するすべての出来事に、説明を付け、意味を見出そうとする。


友達のひとりは、「これは自分のカルマの結果だから」と言って、彼の抱える問題を引き受けている。


そこで私はカール・ユングの言葉を思い出したのです。


「無意識を意識化するまでは、無意識があなたの人生を方向づけし、あなたはそれを"運命"と呼ぶだろう」



さて、それは本当のことなのだろうか・・・。



カルマの法則にしても、無意識や潜在意識にしても、そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。


「そういうことを考えるのを止めてみる」というのも、新たな生き方に繋がるかもしれないと、最近思ったりしている。


「考えるとは、力(エネルギー)を与えること」だと思うのです。


日々、瞑想する中で、最近ひとつの言葉が、私の頭の中を漂っている。


「期待をせずに生きることが瞑想だ」


「期待をしない」というのは、「過去はどうだった」とか「未来はどうあってほしい」ということをベースに、「今」を判断しないということだ。



私が瞑想の先生(Steve Ross)と話す時に、自分が繰り返している課題について相談したりすると、彼は最初にいつもこう言う。


「それについて考えるのをやめなさい」

「気づいた状態でいなさい。でもそれについて考えたり、意味づけすることはやめなさい」



意味づけは、過去や未来をベースに行われる。

過去がこうだったから、今がこうなったに違いない、とか。

今がこうだから、未来はこうなるに違いない、とか。



だけれど、「今」起こっていることから、「過去はどうだった」とか「未来はどうなるか」という思考の要素を全部省いてみると、「今」起こっていることが次にどう展開していくかに、無限の可能性が広がり出す。


無限の可能性の広がりに、好奇心が沸いてくる。それが、「人生を信頼して生きる」という感覚になっていく。


「瞑想をすることで "制限" が外れ、自由な空間が広がり出す」とは、きっとそういうことなんだと、感じている。


「制限」とは往々にして、自分の「思い込み」である。



コロナの時代は大変だったけど、最初から「信頼のプラクティス」をテーマにやってきた。


「信頼のプラクティス」は私が提案した生き方ではなく、Joe Barnettの陰ヨガトレーニングを一緒に開催しているKanaちゃんというお友達の提案だった。


信頼のプラクティスは、私にとっては、「今この瞬間に、スペースを与えること」だった。


それは、「どうなるかわからないけど・・・様子を見てみるか」というスペースで、可能性のスペースだった。


きっと昔の自分だったら、計画を立てたり、見通しをつけたりしていないと、不安だった。そうでなければ、生活していくことができないだろうと、心配していた。


何の根拠もなく、人生を信頼することは、本当に困難なことだった。



信頼のプラクティス。

どうなるかわからないけど、流れてきたものを受け取り、去っていくものは去っていってもらった。


流れてきたものについても、去っていくものについても、深く考えるのをやめてみた。


がむしゃらにならなくても、生活していくことに困らなかった。

ほとんど仕事がない月は、好きなことをして過ごしていた。


そんな生活が2年。

その前の1年は病気療養で、カナダでのんびり暮らしていた。

だからこの3年間、ただ流れるように生きている。


私は日本語の、「天に任せる」という表現はすごいと思う。

天というのは、宗教染みていない感がする。


でもこの間京都のPizza屋で、

「その天というのが "イーシュヴァラ"みたいなもんでさ」とか、前出のKanaちゃんが言っていて、改めてマニアックな会話だと笑った。

友だちとは良いなと、改めて思う。



2022年は1月から、仕事の関係でいくつかの瞑想トレーニングを受講していて、3月末にそれが終わる頃、マインドフルネスを伝える香港在住の、Janet Lauの通訳をする機会を与えられた。これもKanaちゃんが主催しているクラスだった。


2009年からヨガ通訳をしているけど、事前打ち合わせというのを、やったことがない。

でもJanetのクラスに限っては、Janetからの声掛けで、はじめて時間をかけて、事前打ち合わせをした。


クラスの打ち合わせというよりは、お互いの感覚、エネルギーを掴むみたいな時間で、こういうのは、音楽のジャムセッションみたいなものだ。


こういう感覚があるから、時々仕事を "Gig" と呼ぶのが、ピンときたりする。

(Steve RossとJoe Barnettの通訳は、まさにGig でしかないという感覚)。



マインドフルネスと仏教を伝える Janet Lau とのその打ち合わせ時に、彼女がおもしろい話をしてくれた。


"因縁"という言葉について。


「因」は"自由意志"とか、私たちが持つ"興味"とか、"原因"のようなもの。

人は、「こうありたい」という気持ちを持って生きてるけれど、それが「因」というものだ。だけど、いくら「こうありたい」という「因」があったとしても、その通りに人生が進むわけではない。


「縁」は "条件"とか、"状況"のことを言う。Janetは彼女の言葉で、「縁」を「運命」だと呼んでいた。


というのは、「条件や状況(縁)」が整わないと、「こうありたい(因)」を具現化することができないからだ。


簡単な例をあげると、土に埋めた種がどれだけ芽を出したいと思っても(因)、天候や土の質などという条件(縁)が整わない限り、種は目を出すことができない。


「縁」とは「因」が具現化するための、運命のようなものということかな。


この「条件(縁)」には、以下の要素が含まれる。


・天地 - 正しいタイミング 

(Timing has to be right)

・土利 - 正しい環境

(Fitting of the environment)

・人和 - 人々の調和

(People in harmony)



そして彼女は笑顔で言っていた。

「何かをやりたいという思いがあって(因)、条件(縁)が整っているのであれば、それはそのやりたいことを、行動に起こす時かもしれない」


でも、行動の結果は、コントロールすることはできない。

結果がどうなるかは、未知である。

そして、行動を起こさなかった場合にも、行動を起こさなかった結果が伴う。


この、「因」と「縁」の話。

Janetが「縁」を運命と呼んだことで、私はちょっと、背中を押され、ひとつ新たな行動を起こすきっかけになった。



話が巡り巡って、今日は「運命」ということについて書いているのだけれど、運命にも、色んな定義があるもんだということを、感じた今年の春でした。


だけどこういった運命を巡る様々な会話に遭遇したことについても、あまり深く考えないことにしている。


好奇心を持って眺めているくらいのところにいる方が、良いのだということを、瞑想に教えてもらっているのだ。

そうすると自然に笑みが浮かんできたりして、"Mischevious" (いたずらっ子)な気分になり、人生は、遊び心でいっぱいになる。

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