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  • 執筆者の写真Kumi Umuyashiki

祈ること

更新日:2022年2月7日

カナダは日本よりも一日日付が遅れ、明日がクリスマスイブになります。

私は数日前に島を出て、今はノースバンクーバーに来ています。


島はクリスマスってことを忘れてしまうくらい、全然クリスマスの雰囲気、ありませんでした。私が住んでた島の村は、冬は80人くらいの人しか住んでないし、お店もカフェも一個もないので買い物もしなかったけど、街に来ると、すごいですね、ギフトだの、ディナーだの、誘惑されるものがたくさん!そういうのも楽しいけど、でもやっぱりいずれは静かなところに暮らしたいな。


島からバンクーバーに来るには、フェリー3本と車で8時間くらいかかります。


車を運転してくれた女性の友達と、車の中で沢山お喋りしたお陰で、あっという間にバンクーバーに到着しました。


道中、お互いの生い立ちの話をしていて、子どもの頃、彼女はずっと毎晩、神様に祈ることをしていた、と教えてくれました。


彼女には抱えている問題があり、助けて欲しくて、神様を信じて、祈っていたそうです。


でも、何年祈っても、神様は助けてくれませんでした。

だから、彼女は神様はいないんだと理解して、神様に祈るのではなくって、月に祈ることに決めたそうです。


毎晩、月に祈っていた。


月は毎晩、そこにあるよね、というお話になりました。


英語では、"consistency" と言いますが、一貫性がある、ということです。

新月や曇り空で月が見えない日もあるけれど、月が存在しない夜はない。

同じように、太陽が存在しない日中もない。


いつもそこにあるもの、いつも変わらないものの存在に、安心させられるのです。

月には満ち欠けがあって、それは女性的なもの(サイクルがある)に例えられる要素でもあります。


仏教には、他力本願と自力本願があります。

他力本願は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、仏様のご慈悲にすがることができ、救われるという考えです。自力本願は、修行をすることで悟りに達するという考え。


私は特に特別な流派に従って瞑想しているわけではなく、その時々に必要な方法で座ってきました。


神様や月に祈るというのは、他力本願みたいなことなんですが、

「助けてください(南無阿弥陀仏)」

とお願いすることで、ある種の「手放し」が可能になるのだと思うのです。


私たちはいつも頭で考えて、人生をコントロールしようとしています。

人生をどうにかしようとすることをやめるのは、とっても勇気の要ることです。

でも頭の中で考えて答えの出ることって、ほとんどありません。


他力というのは、自分の力ではないということです。

自分の力でどうにかしようと頑張ってきたことを、他の力に頼むみたいなことです。


困ったときに、やってみてください。

静かに座って、「助けてください」と祈ることを。

神様は助けてくれないかもしれません。

それでも大きな空に、「助けてください」と祈ることで、自分が主導権を取ろうとすることが剥がれていき、楽になります。


極めて楽、と書いて、「極楽」となります。


それは未来にあるものではなく、今ここで感じるものなのですが、ヨガや瞑想をしていても、忘れてしまいます。


忘れた時には祈りましょう。


祈った結果、助けられるかどうかは、考えなくても良いのです。

それも自分で決めることではなくって、他の力にお任せしておいたら、良いのです。


Texada島の寒いある日

エッカート・トールの言葉

エッカート・トールの言葉:

ゆだねるとは、理解することをやめること、という場合もあります。

不確実であっても、その不確実さに居心地良くあるということです。



【補足】

他力本願とは、阿弥陀如来の本願力の力だそうです。

これは阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩だった頃に建てられた四十八の誓願のうちの、第十八番目の願いのことだそうです。どうしても衆生を救いたいと起こされた、阿弥陀如来の願いだということになります。


「阿弥陀仏はどうしてこのような願いを建てられたのでしょうか。それはどうやっても我執を離れられず、煩悩に満ち満ちて、一片の清浄心もないこの私がここにいたからであります。自らの力ではとても仏になることのできない私をあわれみたまい、なんとしても救い取りたいと願われたのが、この願です」。


こちらのサイトを参考にさせて頂きました☞ 他力本願とは何か


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