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  • 執筆者の写真Kumi Umuyashiki

まぬけな友達ありがとう、さようなら

更新日:2021年3月8日

私には自分のメンターだと思っている人が数名いる。

身体がノーと言うとき」の著者であるガポール・マテもその一人。


もちろんガポール・マテと個人的にメールを交わしたことは数回限りで、

個人的に深い繋がりがあるわけではありません。

5年くらい前に、癌を患っていた生徒さんについてどうしても相談したいことがあり、こっちから一方的にメールをしたのだけれど、その時、親切な返事が何度か届いたのである。

それが、ガポール・マテと繋がるきっかけとなった。


今、カナダから彼の教えを1年かけて学んでいるところで、

("Compassionate Inquiry"というコースを受講している)

それは「自分への取り組み」として学んでいるのだけれど、

人は「安全な人間関係」を通して癒しを起こしていくことができるのだと、

教えてもらいました。


安全な人間関係を築くために行わなければならないのは、

相手に安全を求めることではなくって、

やっぱり自分に取り組むことなのでした。


日常生活の中で、何かの引き金(トリガー)があって取り乱すとき、

引き金になってしまったものを追求するのではなく、

「自分の中の何が、その引き金によって、動き出してしまったのか」を、

やさしく自分に問う必要がある。


例えば、

誰かに何かを言われて取り乱した自分がいるなら、

その誰かが言った言葉を責めるのではなくて、

自分の中で起こった反応について、探求していくということである。


感情とストーリーを、分けてみるということをする。


誰かが言ったその言葉とは、取りようによって、異なった意味を持つ場合が大半なのだ。

例えば反対意見を言われた場合、

ある人はそれを、批判されたと取るかもしれないし、

別の人は、厳しいが妥当なアドバイスだと、取るかもしれない。



私たちは、自分と同一化してしまっているストーリーをたくさん背負って生きている。

いつも同じことで悩んだり、同じ人と揉めたり、同じ失敗を繰り返したり。

そんな同じストーリーが、自分の人生となっている。



だけど、そのストーリーたちは、一旦どこかに置いておいて、

感情だけを見てあげると、

そして「その感情をはじめて感じたのはいつだったかな」と、

身体の感覚に聞いてみると、

身体の記憶は私たちを、

ずいぶん昔の、自分が小さな無力だった時代まで、連れていってくれたりする。



あの時、小さな自分の感情を、

受け止めてくれる大人がいなかったのであれば、

子どもにとってその状態というのは、

自分は愛される価値がないことになってしまう。


私たちはその時のことを引きずりながら、

いつまでたっても、受け止めてもらえなかった思いや感情を、

どこか別の舞台で、別の人に、ぶつけてしまっていたりする。


「相手が批判している」と感じている場合、

それは往々にして、「自分が自分を批判している」のかもしれない。


自分は愛される価値がない、充分ではない存在だと、自分で信じている場合、

その感覚を思い出させるような出来事が起こると、

例え相手が自分を批判しているのではない場合であっても、

批判されたように取ってしまう。

だって、自分は充分じゃない、価値のない人間だから・・・。

・・・そう思っているのは、相手ではなく、自分自身。



幼い頃、親にきちんと感情を受け止めてもらえた場合、

(それは、健全な家庭であったとしても、稀なことだというけれど)、

自分は愛される価値があるという安全な強さが培われていく。


そうすると、他者の意見にも態度にも揺るぐことなく、

ああ、そういう意見もあるんだ、でも自分は違うけどね、と、

冷静にいることができるようになる。



私はこの1ヶ月、

自分が日常的に繰り返している反応を精査する作業を毎日毎日行って、

(宿題だったからというのもあるのだけれど)、

一緒に学んでいる仲間の話を聞いたり、聞いてもらったりして、

自分が子どもの頃に「聞いてもらえなかった」という不満を持っていたのだと、

気が付きました。


大人(親)は自分のことで精いっぱいであって、

自分の痛みに対処することに忙しく、

子どもを産んだのにも関わらず、

子どもを見ておらず、

子どもの声を聞いていないということだったのかもしれない。

もう一度書くけれど、それができている親というのは、稀な存在なのである。


だから、普通の家庭で育ったように見える誰もが、何等かの傷を負って生きている。



10月に入って、ジョー・バーネット先生の陰ヨガトレーニング通訳を、

オンラインにて毎週末行っている。

私は通訳であり、一緒になってヨガの練習は行わない。

それでも、ジョーが先週、瞑想の練習を指導しながら、

「3つの体」の説明をしている時に、

私は「アストラル体」というレベルの体にふと出会うことがあり、

通訳しながら、涙が出そうになりました。


仕事中だし、泣かないようにしたんだよ、とジョーに伝えたら、

それを聞いて自分も泣けてくるけど、指導してるから泣かないようにしないと!と、

チャーミングな返事をくれた。



私はヨガの先生をしているけれど、

目に見えないものや、科学的に証明できないものを、

絶対的に存在するものとして、盲目に信じたり、教えることは、していません。

若い頃は盲目に信じていたこともあったけれど、

今は、「わからない」というのが、一番正直でしっくりくる。


ヨガには、客観的に説明できる部分と、主観的に感じている部分がある。

主観的に感じていることを、それが絶対的なものであるとして、

人に押し付けてしまうことは、カルト集団みたいなことだと思っている。


だから最近は、「提案」という方法が好きだ。

「私はこう感じるけれど、あなたはどうでしょうか?」と。



ヨガでは、3つの体があるという。

粗大身、アストラル体(微細身)、原因身。


陰ヨガの先生たちは、アストラル体を、「感情や記憶、欲望を宿す体」と説明している。

私たちは解離(切り離してしまう)してしまうほどのトラウマチックな経験をしていなくとも、様々な感情や記憶を、埋葬してしまっている。


粗大な体(筋肉や臓器、骨、靭帯など)を舞台にヨガ練習をしていると、

身体に取り組むことで思考が静かになり、

そこにできた空間に、埋葬したと思っていた感情が、蘇ってくることがある。

それがきっと、アストラル体というものなのかもしれない。

この理解も、私の主観的なものであるから、正しいかどうかはわからないけれど。


感情は、記憶(過去)と結びついている。

記憶(過去)は、未来への欲望にも繋がる。


私たちはそんなものたちに、「無意識」でいる限り、

人生のパターンを、支配されている。

そういうもののことをヨガの先人たちは、

「サムスカーラ」と呼んだのかもしれない。



私が最近までよく分からなかったのは、「原因身」のことだった。

原因身は、私たちが信じているものや、あらゆる行動の後ろ側にある考えのようなものでできた体だという。


通訳をしながら、ふと、私の感情ボディ(アストラル体)に触れ合った時に、

その感情の原因が、紐解くように、そこに表れてきたのです。

(探そうとしても見つからないが、向こう側から出現してくる)。


それは、子どもの頃にできた「対処法」のようなものであり、

その頃から、馴染みのあるものであり、

そのお陰で自分はやってこれたように見えるものであるのだけれど、

実は、今となっては何の役にも立たず、

反対に、苦しみの原因となっているような、

盲目に信じていた、自分の中のストーリーでした。


それはきっと、ガポール・マテが、「まぬけな友達」と呼んでいたものだ。

幼い頃は、そうしないとやって来れないように見えたから、

そういう対処法(戦略みたいに)を取ってきた。

だから、その対処法は友達みたいなものだった。

でもね、今はあんまり助けになっていない友達だから、「まぬけ」なんだな。



私の場合、自分のストーリーを人に聞いてもらうことに躍起になったり、

解決するべきものとして人に提示したりしながら、

一体本当は、何が得たかったのか。


よくよくストーリーを吟味してみると、

そのストーリーの内容は、くだらないものだった。

くだらないとうか、解決のしようがないように、できていた。


解決してしまったら、困るから。

だってそうしたら、私はいったい、何の話をしたら良いのか。

だって私は、話を聞いてもらう必要があるのだから。

私は、人に話を聞いてもらいたかったのだ。

話を聞いてもらえないってことは、自分に価値がないことだから。

それは、私がそう思い込んでいたこと。

まぬけな信念、「まぬけな友達」だった。



これは、カルマのサイクルの話のようでもある。

行動(カルマ)を起こし、

その行動の結果の印象(サムスカーラ)が残り、

その印象に基づき、傾向(ヴァサナ)が生じ、

その傾向が、私たちの考えや信じていることを作り(ヴリッティ)、

その思考に基づいて、次の行動(カルマ)を起こすという・・・。


私たちは、このサイクルにほとんど無意識で生きている。



考えや信じていることとは、

結局、無意識にそうしていることが、多いのだということ。

今回私が出会った原因身は、

私の主観的な経験では、

もう、何の役にも立たない信念であって、

幼い頃の悲しみや怒りのような感情と関わりがあり、

もう役に立たない信念なのにも関わらず、

私の行動を左右しているものでした。



それに気が付いたあと、ある特定の出来事で、

今まで感情を取り乱す引き金となっていたことが、

エネルギーを持たなくなった。


条件反射のように、体は反応をしても、

そっちの方向へ引きずられて、

役に立たなくなったストーリーと自己同一することが、なくなった。


でも、私たちには、

忘れてしまったように思われる記憶や、

役に立たない信念みたいなものが、

まだまだきっと沢山あるのだから、

この先も自分に取り組んでいくこと。

それがきっと、他者との安全な関係を築くためのベースであり、

最終的には、自分をもっと楽に、軽やかに、自由にしてくれるものだから。


理性脳を使って勉強したり、

感情レベルで自分に取り組んだり、

内臓感覚に繋がるような体を使うヨガの練習をしていると、

点が線となり、

線が面となって広がっていく。

こういうことなのかな、と気づく機会を多く与えられる。


理性脳も感情も、内臓感覚もお互いにすごい情報交換している。

ヨガ的に表現するならば、3つの体は繋がっていて、お互いに影響を与えあっている。


身体が「ノー」と言うとき
2年前の秋 - 宮島の鹿

【補足】

インナーチャイルドという言葉があるけれど、

私たちは日常の中で、

そういう「癒されていない幼い頃の自分」に戻ってしまうことがあります。

その幼い自分に戻った時というのは、

大人の自分であっても、脳内ケミカルのバランスが変化してしまいます。

脳内ケミカル(ホルモン・神経伝達物質)のバランスは、

自分で頑張って変えることができるようなものではなく、

育ってきた環境の中でそうなってしまった、というようなものだそうです。


だからそういう自分にまずはやさしく寛容でいてあげること。

変えようとせずに、気づくということが大切だと、学びました。


極端な例として、解離性同一障害(多重人格)の方の例を、

ガポール先生はあげてきています。

その方は喘息持ちであり、ガポール先生は喘息の薬を処方していました。

でも、その方は3つの人格を持っていて、

そのひとつが、「子ども」だったそうです。

大人のその方が子どもの人格になっていると、

大人の分量の喘息薬に、副作用を起こすことがわかりました。

大人なのに人格が変わると、生理学的に、子どもになってしまっているのです。


大人の私たちの脳内化学物質は変化します。

不安で、見捨てられた子どもの脳内ケミカルの状態になることもあります。

そういうことが、私たちの体では起こっているのす。

(Compassionate Inquiry のコースより一部引用しました)。

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