Kumi Umuyashiki
うどんにスパゲティーソースはかけない
更新日:2021年2月2日
2020年も残りあと1日となりました。
一年を振り返って、何を書こうか、この数日、思いを巡らせていました。
2020年は9月から、アメリカのトラウマセンターが開催している、「トラウマセンシティブヨガ」の300時間認定コースを受けていて、来年1月から3月にかけて、卒業課題の論文を書くことになっています。
最初は、助産師さんとチームを組んで、妊婦さんやお母さん達、赤ちゃんとのヨガを通して、愛着や、インターパーソナルニューロバイオロジー(日本語では"対人神経生物学"かな?)について書こうかなと、考えていました。
だけれど、コースを進めていくにあたって、アメリカでできたトラウマセンシティブヨガを、日本の社会や文化の中で日本語で行うということについて、私の興味は向かっていったのです。
言葉には、額面通り以外の意味や、受け取り方がある。私は通訳をしていますが、通訳者は、相手が言いたいことの意図を汲んで、言葉を伝えることをします。直訳と意訳の違い。意訳をするには、ある程度、相手の文化のことや、相手の人柄のことも、知る必要があるのです。
トラウマセンシティブヨガでは、複雑性トラウマを抱えた人が「自分の体」の感覚を取り戻せるように、「You / Your」という言葉を使います。
「You」と「 I 」は別々の人間。
言葉は認知を促します。
「腕を上げる (raise the arm)」とは言わずに「あなたの腕を上げる (raise "your" arm)」とガイドすることで、自分の体(内受容感覚)とより繋がれるようにしたい・・・。
だけど日本語はそもそも、日常会話(口語の場合)で、そういった「主語」や所有格は、ほとんどのケースで、省かれています。
「私はお腹すいた」とは言わず、「お腹空いた」と言う。
「あなたはどこへ行くの?」とは言わず、「どこへ行くの?」と言う。
「あなたの手を洗いなさいね」とは言わず、「手を洗いなさいね」と言う。
「私の耳が痛い」とは言わず、「耳が痛い」と言う。
私は、昔から言語にとても興味があったので、随分前に「ことばと文化」という本を読んで、納得したことがありました。(ちなみに文語では、「私は」と書いても違和感がない)。
日本人は、自分のことを普段あまり「私は」とは呼ばないけれど、代わりに「先生は」とか「ママは」とか、「お父さんは」という具合に「役割」で呼ぶことがある、というようなことが、その本には書いてありました。
例:「お母さんがやってあげるよ」
そして相手のことも、「先生は」とか「お父さんは」と、役割で呼びます。
先生に向かって、「あなたは(You)」とは、言わない。
例:「先生はどう思いますか?」
だけど英語は、自分は " I " でしかなく、相手は "You" でしかない。
相手を役割で呼ぶのは、子どもが親を"Mum (Mom)" とか、"Dad" と呼ぶ時くらいです。
日本はともすると、「個人」である前に、「役割」が重視されるのではないだろうか・・・。
ところで、日本文化の理解を深めてくれる文献に「甘えの構造」という本があります。
日本特有の文化、所謂、「内社会・外社会」というものがあって、内社会(家族のような近い間柄)は「甘え合う関係」で成り立っており、そこでは割とどんなことでも、許されてしまう・・・。だけど、そこから一歩外(世間)に出ると、「こう振る舞うべき」という暗黙のルールがあったりします。
(補足:虐待のような問題のある家庭もあるので、すべての家族が一般的な甘え合う関係に当てはまるわけではないですが)。
「世間」という言葉は、それを英語に訳すとなると、"Society(社会)" という英単語くらいしか思いつかない。
でも、「世間」は、どう考えても、「社会」ではない。
世間とは、日本特有のもののような、気がするのです。
そして「世間」を英語で説明するのは、とても難しい。
「世間」には、何か暗黙のルールがあって、お世話になったり、お世話して差し上げたりしながら、お互いが守り合い、監視し合っているような場・・・。
PTAや日本の政治家だって、そのメンバーたちは、お互いを監視しているように見受けられることがある。
自分が所属する、お世話になっている集団に対して、裏切ることや、恥になるようなことをすると、その集団から批判される可能性もあります。「連帯責任」という言葉は、英語にあるのだろうか・・・。
そういった集団の中では、私たちは「個」である前に、そこに属するための「役割」を全うしなければならないのです。その集団のやり方にそぐわない人がいたら、その人は出る杭となったり、酷い時は村八分にされたり、攻撃を受けたりするかもしれません。
学校でも、「多様性が大切」と道徳の時間に教えながらも、一様(みんなが同じ)のやり方しか、許可をしないこともあります。
日本のそういうのは、良くも悪くも、"すごい" 文化だと思う。
こういう "すごい" 文化だから、「言わなくても分かること」がとても多く、「相手の気持ちを察する」繊細さも、誰もが持っている。
調和を大切にするから、コロナ対策だって、罰金制度を設けなくても、どうにかみんな、突拍子もないことはしないで済んでいる。災害があっても、助け合いの心を持って、復興も早い。
だけど、そういう「世間様」とは、期待通りに振る舞わないと、とても恐ろしい場所となったりもします。
反対に、甘えの関係で成り立つ家庭内(または近い関係間)では、何をやっても許されるのかもしれません。
「家族じゃないか・・・」
「親子じゃないか・・・」
「夫婦じゃないか・・・」
「仲間じゃないか・・・」
で、甘え甘やかされ、許されていくことが、とっても多い日本。
大ゲンカをした場合でも、「もうそんなことは忘れたから、もういいから・・・」とかいう優しさや情があったりして許されるからこそ、また同時にそのままの相手を甘えさせてあげられるような関係になっていたりします。
ちなみにカナダでは、親子間でも家族でも夫婦の間でも、内でも外でも、respect (= 相手に敬意を払うこと)を、とても大切にする。大人が大人に子どもっぽく甘えたり、感情的になったりした場合には、責任を取るように求められる。敬意を払うことがなくなった関係は、ばっさり「終了」させられてしまう場合もある。
そんな彼らは、内(家)の中でも、外に出ても、「振舞い」が変わるということが、あまりありません。
(日本では、内弁慶、外面が良い、という言葉がありますが)。
私は内社会で甘えが許される日本は、とても優しい国だと思う。
でも時には、その、甘えや情で絡みついた関係性のために、離れたくても離れられなかったり(共依存)、離れることに罪悪感を持つ場合もあるようです。
人間は、自立したひとりの人間として主体性(agency)を感じられることで、自信を持って生きていくことができる。
良かれと思って誰かを助けることで、時にはその人から主体性を奪ってしまうことがある。それは、その人が持っている力を奪うことにもなってしまいます。
甘えが許される内社会とは反対に、一歩外に出ると、世間では、なかなかそうはいかない。
世間は「相手に敬意を払う」とか「お互いを尊重」する場というよりは、「調和」を大切にする場であり、「ご迷惑をかけない」場であり、「恥にならないようにする場」であり、「裏切らない」場であり、「相手に仮(恩)を作る」場であり、「相手に仮(恩)を返す場」であり、そういった仁義を切らないと、集団に叩かれる可能性のある場所なのである・・・。(というようなことが、「甘えの構造」に書いてあります)。
私は日本語の世間という言葉が、「世間様」と様を付けて使われることが、とても興味深いと感じずにはいられないのです。
「様」をつけることで、世間というものが人格化して、世間様という集団人格にように(それは神のような存在となって)、人々の振舞い、言動を、裁いているのではないだろうか・・・。
(巡り巡って・・・)トラウマセンシティブヨガの話に戻りますが、そんな風潮のある日本の社会(世間)で、自分の体や、自分を個として感じてもらうために、「"あなたの"腕を上げてください」と言ったって・・・、なんだか、ピンと来ないのです。
それは、うどんにスパゲティーソースかけて食べてるみたいな、ちぐはぐなことのように感じられて、仕方がなかった。
最もなことだけれど、「何を言うか?」ではなく、「What is your intention = 何を意図しているのか?」、ということを考えなくてはならず、同じ意図を持っていたとしても、言語や文化の違いから、何を言うかが変わる場合があるのだと思うのです。
だから、私はトラウマセンシティブヨガのスーパバイザーとファシリテーターの方々(アメリカ人とオーストラリア人)に、トラウマセンシティブヨガをガイドする際の、こういった文化の違いや言語の違いの課題(英語圏と日本の文化と言語の違い)について、提議しました。
そして私の卒業課題の論文のテーマは、愛着とかインターパーソナルニューロバイオロジーではなく、「日本で日本語でトラウマセンシティブヨガをガイドすることについて」、になりそうな気がしている・・・。
(ところでこのコースの私のパートナーは韓国人ですが、彼女は韓国語は「私」という言葉は、同時に「あなた」でもあると言っていました)。
トラウマセンシティブヨガでは様々な側面からトラウマ(複雑性トラウマ)について考えますが、そこには人々が、社会的(文化、歴史、人種、性別、年齢、差別、力関係など)にどのような圧力をかけれれてきたのか、ということも、含まれてきます。
日本とアメリカの歴史は全く異なるし、日本においての社会的なマイナス面が、例えば、私たち日本人に負の影響を与えていたとしても・・・、私は立ち上がってみんなに聞こえるような声でそこへ疑問を投げかけたり、社会の仕組みを変えようと戦いモードになることは、正直やりたくありません。できるとも思わないし、そんなことをしても、逆効果になる場合さえあるのかもしれない・・・。(こういうところ、私もたぶん、日本的なのだと思う)。
じゃあ、私はトラウマセンシティブヨガや、サイコセラピー(Compassionate Inquiry)を学びながら、何をどうしたいのだろうか・・・。
2020年、学びを通して私が辿り着いた、本当に単純な答えは、「自分を整えること」と、「自分を整える方法を知る」ことだった。
これを英語では、"I can regulate myself" 、"I know how to regulate myself" と書きます。
自分を整えるとは、神経系を整えるという意味だと思います。
生きていく上で、取り乱してしまいそうな出来事が起こった時に、その出来事自体はどうすることができなくても、自分を整えることができたら、その嵐の中を、歩んでいくことができるかもしれない。
そのために、「体から頭へ(bottom up)」、そして、「頭から体へ(top down)」、行ったり来たりしてあげて、「大丈夫だ(安心)」を感じられる体験を、どんどん増やしていく。
日本にいたって、どこか他の国にいたって、私たちが生きる社会にはプラスもマイナスもあります。もちろん、国によってはマイナスしかない社会だって、あると思います。
そんなそれぞれの社会に圧倒されながら、多くの人が生きている。人によっては、世界、社会、世間とは、「危険な場所」以外の、何ものでもないことだってある。
社会やシステムを変えることは、本当に影響力のある人であっても、難しい。だから、一番身近にいる、自分に取り組んで、「大丈夫」という感覚をたくさん育むこと・・・。
もしもそんな体験を、他の人たちとシェアすることができるのなら、「もしよかったら、どうですか?」と「提案」してみること・・・。「強制」するのではなくて。
それが、私の2020年に学んだことで、2021年もきっと引き続き、そんな感じでいくのかな。
そういう、「独自の体験」をシェアする場では、私は先生ではない。
だから最近は、先生ということに、違和感があるし、こういうことに関して、「教える」、「指導する」、というのは、もう、なんだか、まったく、違うような気がしてきているのです。(ピアノの先生とか、英語の先生とは、ちょっと違うと思うから)。

2020年
ヨガに参加頂いた方々へ、ありがとうございました。
英語のレッスンに参加頂いた方々、ありがとうございました。
お世話になった仲間、家族に、ありがとうございました。
カナダで沢山遊んだ友達、家族にも、ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願い致します。